岩国市史
沼・干潟・川跡・遠浅海の開墾
岩国徴古館 岩国市史編纂所 昭和32年(1957年) 編集
第二部 藩政時代の岩国
第二編 経済
第三章 農耕地の開拓
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第三節 川下地区の干拓
中州洲頭部は十一世紀頃現れ、十六世紀末には陸地化して集落ができていた。
中央付近には、山口の大内氏や大友氏の館に匹敵する大規模な(約2町分)中津居館跡があり当時の
繁栄を物語っている。
吉川氏が岩国に入封したとき、楠から向今津・車・大薮・中すが・小車・下かうげ・
えいが鼻までが陸地だった。
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1600年頃の川下地域
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1610年頃の川下地域
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1670〜1680年頃の川下地域
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1720年頃の川下地域
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1820年頃の川下地域
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現在の川下地域
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中津居館は十四世紀前半に建造されたもので、
吉川氏が岩国に入封したとき、ここを瑞光寺として奉った。(岩国市教育委員会調査)
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中州の干拓は最初は民間雑然と小規模で行なったので、詳細は明らかでない。
藩士は1672年の開作調査で二十九人、元禄末期には二十五名、1724年四十六名干拓した。
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藩士による手捌(てさばき)により、寛文末(1672年)433石、元禄時代末(1702年)578石、
享保末(1735年)1483石と検地帳に記録されている。
元禄年間、向今津が減石になったが、これは今津川氾濫により堤防決壊、
耕作地流失など甚大な被害があったためである。
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最初の干拓は貫永の頃(1640年前後)、福原喜兵衛正方が干拓し、承応元年(1652年)の検地で
三十石と記載されている。少し遅れて寛永(1621〜)から慶安(1651年)の頃、室木野地、与三左衛門野地、助五郎野地が開かれた。
1650年頃、孫右野地の一部だった山根開が干拓された。当初の山根開は大水で大破し、藩の手で再開発した。
1660年頃、山根開の南に、渡辺二郎兵衛、渡辺太郎右衛門、遠藤九郎左衛門が共同で渡辺開を干拓した。
寛文(1661〜1672年)頃、佐伯開、車の熊代開、車の益田開が干拓された。
門前川沿いの山県開は1670年前後、山田開は鈴木治兵衛の干拓地を分譲したものある。
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1670年までに、山根開、佐伯開、渡辺開、熊野開、益田開、井上開、山県開を夫々束ねた線まで海岸線が
東に移ってきた。検地帳に四百三十三石増加したとあるので、ザックリであるが約二十町分(200,000平米)の
耕作地が生まれた。
1693年、岩国藩が向今津を東西に貫通する堀川を作り、さらに今津川・門前川の分流で
三角州内に流れていた川を堰き止め、其の川代を田地に開墾し、これを車川新田、平太川新田と
称した。その川じりに当たる丸野地・佐々木開は引き続き開墾された。1717年には仁田開、戸津開ができた。
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17世紀の干拓・開墾が終わって中断していた干拓事業が18世紀末、再開した。
1788年、向今津・車・中津の3ヶ村の百姓が益田開上地沖にかけて干拓した百姓開で数年かかった。
1792年、藩の手で松木開、川平開の瀬止が行われた。
1795年、川西町の米元治兵衛・藤江弥三郎・藤江佐兵衛が出資して土地分譲を条件に
茶屋・菊屋開を行った。
文化年間(1805〜1818年)、香川琴山により麻里布地区・愛宕地区・川下地区で大規模な藩営開作が行われた。
川下地区でも御蔵元開と称される四十一町の干拓が実施された。
この開発の資金は新地配分を条件に集めたもので主に岩国町の町家が出資した。
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御蔵元開についで昌明御殿開作、栗屋柾が発起して資金を集めた栗屋開が、1842年完成した。
1827年の吉川刑部開では潮止が旨くいかず難工事であった。
1831年、小河内養拙が企画した小河内十八町分は数年かかった。
1842年、吉川弥悦・栗屋雅楽の発起で、中津の川平開・残地開・沖の手開の干拓が完成した。
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1861年、藩営で向今津・車・中津の築増開の干拓を実施し、1864年百十町分が完成して岩国藩の直営になった。
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