出典 岩国市史 (岩国市長、徴古館編集)
現在、新たに橋を架ける場合、瀬戸大橋のように島から島へ優雅な懸垂構造を描く橋を
誰もが想像すると考えます。
ほんの150年前まで、日本には車や鋼材精錬技術はなく主な渡河手段は小船でした。
急峻な山から一気に流れ落ちる激流に対向する手段がなく、
穏やかな川や運河以外に橋は無く、長雨のときは川止めが普通でした。
しかし、吉川家は約400年前、関が原の戦後処理で移封になった周防岩国で、戦略上敢えて洪水が起きる暴れ川周辺に城下町を
造り、洪水でも流失しない橋を創意工夫して架けました。
約70年かかりましたが、洗掘が無いように川底に石畳をしき激流の流れを変え、また川に柱を
建てない木造アーチ構造にして276年間もの長期間流失しなかった日本で唯一の橋です。
猿橋、愛本橋とともに3大奇橋と呼ばれ観光名所になっています。
錦帯橋は垂直方向の耐力があり、現在の橋梁専門家が見ても驚きの技術です、
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吉川家の家系は藤原氏で、駿河の入江氏から分家した吉川経義が始祖である。 駿河入江庄吉川邑に居館を構築して1185年から定住している。 歴代の当主は武門の誉れ高く、徐々に領地を拡大した。 約350年後、 毛利元就の次男である元春は吉川家の養子に入って毛利家を支え、 戦国時代末期、毛利元就、吉川元春の時代、毛利本家は120万石、 吉川家は13万石までの大勢力になった
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太閤豊臣秀吉の命で文禄の役と、慶長の役に毛利家・吉川家も出兵した。 明軍(中国)が運んできた大砲の威力で進軍が困難になり、極寒で凍傷になる兵がでる、また 補給不足で餓死者が戦死者より多数出るなどで撤退がきまった。
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石田三成等の奉行衆は、文禄・慶長の役敗北の責任は朝鮮出兵の武将にありとし、 領地の減封・移封、逆に奉行衆を加増する策を練り、吉川広家も 減封の対象になった。福島正則・加藤清正らは激怒して石田三成を討つ行動に出たが、これを鎮めで 沙汰無しにしたのが徳川家康だった。関が原では家康に敵対しないことを伝えた
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関が原の戦後、大阪城にいた毛利輝元は切腹、毛利家断絶の沙汰が降りた。 このとき、吉川広家は肺腑から搾り出した様な悲痛極な下記の誓書を家康に差し出し、 死を覚悟して「今生、後生、しるしを差上」などの文字がある。 吉川広家はこの誓書が受け入れられない場合は切腹する覚悟で、介錯人を森脇作右衛門に依頼していた。 家康は吉川広家の苦悩を理解して広家に与えようとした防長2ヶ国を毛利輝本・秀就に与え、 かつ輝元の命を保証した。その後、吉川家の岩国移封が決まった。
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当時は戦乱が続く可能性があり、岩国藩の初代藩主吉川広家公は防御優先で、 三方を川に囲まれた横山の地に城郭を築くことにした。
周防岩国は山林が97%と平野が殆どなく、当時の横山周辺は川の氾濫で出来た中州や湿地帯、また 海が迫っていた。
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幾筋になっていた川の流れを1本に絞るため堤防・川造りを始めた
家臣約1500名の屋敷をつくり城下町を造るため、堤防でし切った旧川底・中州の埋め立て工事をおこない、 併行して道路工事、橋を架ける場所も特定した
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錦川はとんでもない暴れ川で頻繁に洪水を起こし従来技術の柱橋は悉く流失した。 岩国藩2代目藩主吉川広正公の苦悩は生涯続いた。1657年、架橋・流失の記述が「御用所日記」「岩国年代記」「御取次所日記」に残っている
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岩国藩3代目藩主吉川広嘉公は、「流れない橋」に没頭した。延宝 元年10月1日(1673年)錦帯橋を創建したが、翌年の洪水で流失した。 延宝 2年10月15日(1674年)再建し、以降276年間健在であった。祖父の計画から約70年かかった。
洪水で橋が流れないのは、川造り、堤防造り、河床造りで川の流れを安定させて洗掘を起こさせない事と、 川の中に柱を立てないようにスパンの長い木造アーチ構造を採用したことにある。 アーチ構造は上からの力に強く、橋に数千人乗っても強度に問題がない実用性がある。洪水に耐え276年間流失しなかった日本で最初の橋である。
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錦帯橋は城門に架かる橋で、単に川を渡るだけでなく文化の中心になった。錦帯橋は生活安定の象徴として春は桜・菖蒲園、夏は花火大会・鵜飼、 秋は紅葉、冬は正月の神社、また年間を通じてお茶会、お花、和歌、座禅会、聞香会、民族踊りなどの文化活動の中心になった
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