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吉川家は関が原の戦後処理で周防岩国に移封になった。周囲を東軍の猛将である藤堂高虎、福島正則、黒田長政等に囲まれた
厳しい国替であり防御優先で3方向を川に囲まれた横山に城を築いた。
城下町の中心部に流れる錦川に橋をかけようとしたが従来技術の橋は洪水で全て流失した。
しかし突然、天才的な閃きで従来技術の欠点を克服した橋脚間のスパンが長く、5000人乗っても安心な強靭性、および
耐震性があり、河床下に3層の石畳を敷き洪水でも流失しない木造アーチ構造の錦帯橋を考案した。
毎年起きる錦川の洪水に耐えて276年間流失しなかった日本唯一の橋で当時、世界で初めての技術です。
尚、好戦的な福島正則は周防岩国の国境小瀬川付近の小方に亀井城を造ったが1619年武家諸法度にふれて改易になり、
隣国安芸は友好的な浅野藩になった。福島正則からの城受け渡しに吉川藩も出兵している。挑発に乗らず内政充実に専念した深謀遠慮であろうか。
現在、流失しない橋は当り前ですが、江戸時代の日本で洪水で流れない橋は錦帯橋だけだった。
河床下に3層の石畳を張り木造アーチ構造の橋で、現在の橋梁専門家がみても驚くほど優れた技術です。
戦国の気風が残る約400年前に何故設計できたか今も驚きです。
橋脚間を一辺に川の中に逆正三角形の頂点を描き、これを中心に橋脚間に60度の
円弧を描くと、これが錦帯橋の形です。まさにアーチ構造で、日本では誰も知らない時代に
棟梁がアーチ構造を理解していたのは確実です。
錦帯橋の橋脚が276年ぶりに崩落したのは戦争で岩国駅周辺に
できた穴を埋めるため錦川川原の石を採取したのが原因といわれています。
河床の安定が崩れて洗掘で3mの大穴が出来て錦帯橋の橋脚が崩落し、
翌年のルース台風では鉄道橋以外、岩国市内の全ての橋が流失した。
岩国市は昭和55年〜平成23年、錦帯橋周辺の錦川河床石畳再建工事を行った。
岩国藩初代藩主吉川広家公は、都市計画を立て
干拓・道路・屋敷区割などの工事を同時併行で行った。
大手門の正面に架ける橋は、城下町の主要道路につながる計画であり、
架橋工事が困難でも是が非でも成功させる必要があった。
必死の心構えで臨みアーチ構造の極意に到達したと考える。
吉川家は、干拓で屋敷や畑を造成しただけでなく、
人々の生活を支える産業を興した。
山に楮・三椏を植えて製造した岩国半紙や綿栽培の織物、
特に木綿から作った岩国ちぢみ、
また櫨(ハゼ)の実から生蝋を製造する産業なども興した。
尾津の干拓地に栽培している岩国蓮根は今も特産品である。
関が原の戦後、大阪城にいた毛利輝元は切腹、毛利家断絶の沙汰が降りた。
このとき、吉川広家は肺腑から搾り出した様な悲痛極な誓書を家康に差し出し、
死を覚悟して「今生、後生、しるしを差上」などの文字がある。
吉川広家はこの誓書が受け入れられない場合は切腹する覚悟で、介錯人を森脇作右衛門に依頼していた。
家康は吉川広家の苦悩を理解して広家に与えようとした防長2ヶ国を毛利輝本・秀就に与え、
かつ輝元の命を保証した。その後、吉川家の岩国移封が決まった。
岩国藩は開墾や特産品振興などで江戸時代初期は蓄財していた。しかし、家格向上のため幕府重臣への
賄賂で貯蓄が底を突き、かつ約4000貫の負債が残った。また江戸参府で平均約1000貫、
時々仰せつかる幕府への手伝い普請で平均約1000両と
負債が膨らみ続け江戸時代末期には74,445両の債務があった。
明治四年、新政府の発令で債務免除になった。
石を円弧状に並べると重力により互いの石が密着し、かつ底辺では横方向に広がる
力になるので、ここを抑えると強固な構造になる。メソポタミア文明から約
6000年掛かって中東・ヨーロッパに拡がった。岩国藩3代藩主吉川広嘉公は微かなヒントを
手がかりに約15年で木造アーチ構造を考案した。
河床を安定させて洗掘を起こさせない工夫をしている。
河床の石畳は下流から上流に向かって魚のうろこのように互いに重ね、水流に逆らわず前下がりに据えて水流で締まるようにしており、
石の角に水流の圧が集中して動かないように上流側は平らで丸みを帯びた石で
下流側の角は下流側に据える石の上に少し被せた。敷石が定まると隣石の接触がずれない様に隙間に生の松杭を打ち込んでいる。
橋を流失させないコツは、河床を安定させて洗掘を起こさせない事と約400年前の家臣、湯浅七右衛門と
米村茂右衛門は気が付いた。
2016年9月の台風10号で北海道の河川では近代的な橋にもかかわらず、土手と橋の接触面で洗掘がおき、
約40の橋が崩落した。
約400年前、錦川では土手の基礎や壁面を強固にした上、河床に石畳を敷きつめて平らにすることで、
流れを穏やかにする川造りを行っている
吉川広家は関が原の戦のとき何故、東軍に味方したかは理由があります。
文禄・慶長の役のとき吉川広家は多くの武将と共に朝鮮で戦い、秀吉没後撤退した。
石田三成らは敗戦の責任として領地没収・減封の沙汰を
下し、何とその領地を奉行衆縁者に加増しようとした。福島正則等は怒り心頭で広家も減封になりそうになった。
それを救ったのが、大老の家康で全て無かった事にした。
朝鮮で一緒に戦った武将、特に黒田長正との絆が強く奉行衆の浅知恵には最後まで同心できなかったようだ。
関ケ原の戦いの前日、広家が長政へ書状を届けた際、使者にこのナマズ形の兜を着用させて遣わしたと伝わる。
関が原戦の2年前、朝鮮の戦では凍傷で指が落ち鉄砲が撃てない兵がでたり、
食料不足、明兵は大砲で城を破壊する、北方の馬は早いなどの不利な条件が
重なり守勢に転じた。約4万の明軍が加藤清正守る蔚山城に押し寄せ落城寸前になった時、
広家は敵陣に突進して勇戦奮闘して敵兵の首を挙げた。
黒田長政・藤堂高虎もこれを見て勇躍して進撃し、遂に明側の動揺が拡がり敗走した。
加藤清正は偉勲を激賞し、清正の馬印「婆々羅」を色違いで御使用ありたきと申し出た。
以後、白を赤に変えて使い明治初頭広島の神社に奉納した
錦帯橋は横山の城郭地域と、中下級武士の居住地区を結ぶ城門橋で江戸時代は武家と御用商人以外は
通行禁止であった。しかし平和な時代が続き見物者が増えたことから天保十二年(1841年)頃から
来観者を受け入れるようになり、安藤広重の版画や錦絵で世間の注目を浴びるようになった。
江戸末期以降の名所案内には錦帯橋が掲載されている。川に柱を建てていない奇妙な太鼓橋で、
美しいとの寸評である。
同人誌の和歌を見てると人生の喜びは夫婦・子・孫との触れあい、花鳥風月・旅行などであり、
悲しみは病気、親しい人との別れや死別などで、仏教の説く四苦八苦・生老病死の通りです。
人生は思い通りにならない、全ては移り変わる、すべては繋がりの中で変化する、喜びは心の持ちよう、など
思いを和歌に吐き出すことで静かな心を得て人生の見方が変わる人もいます。
毛利・吉川家は積極的に他国を侵略した事は少ない。戦国時代、隣国の尼子一族はいきなり侵略してきた。
大内家とはよき隣人であったが家臣の陶が大内の当主を殺害して安芸を窺い始めた。
徳川家は幕末2度も長州征伐で約20万の大軍で攻めてきた。
欧米はアジアを植民地にと日本も窺ってきた。禅宗の「小欲・知足」で平和に暮らしているが
存亡の危機に会うと本気で反撃する気風のようだ。
錦帯橋は図面どおりに造ってもアーチ構造にならない。江戸時代、四国の某藩が僧を岩国に派遣して錦帯橋の図面を
持ち帰り図面通りに造ったが成功しなかった。実は棟梁だけに伝わる口伝のノウハウがある。
木材は乾燥すると縮み、重みでしなる。これを考慮してアーチ構造の頂上に嵌め込む大棟木(キーストーン相当)は
長めに切っておき時間が経てば丁度いい長さになる。最終的には図面どおりになるが、この冗長の寸法は
当日の朝、棟梁が木材の具合や全体をみて決めている。棟梁、大工の住む材木町、川西などでは当たり前のことでも
他の藩の人たちには不思議だったのであろう。
周防岩国の本郷付近、引地峠に吉川家の処刑場があった。関が原戦後の移封直後は3万石であり
1607年から1610年の間、検地を行ったが、これに反対して暴動を起こした地元庄屋10名を引地峠の処刑場で
処刑した。隠し田がみつかり禄高は一気に6万石と倍になった。また、山林の多い美和地区では年貢代わりに楮・三椏を
栽培して和紙を製造し、大阪で販売したが紙の買い上げ価格の値上げを要求した畔頭と農民を1720年斬首した。
幕末、周防岩国からも奇兵隊に多くが参加したが、脱走した元奇兵隊13名を引地峠の処刑場で斬首した。
錦川の洪水は川の中のすべてを流すため、柱を川に建てない方針を最初に立てている。
凄いところが3つあります。第一に刎橋は強度はないがスパンが長いため、両端は刎橋と同じ構造にしている。
第二に強度を出すため刎橋の頂点に当時は桁を置いていたが、これを大棟木にして両端から跳ね上げた桁を結合して
アーチ構造にしている。跳ね上げた桁を円弧にすると強度が上がると、なぜ知っていたか謎ですが、現状は
正確な円弧になっています。第三は橋脚付近で洗掘を起こさせないため川の形状を変え、
かつ川底に3段の石畳を敷いて穏やかな激流にしている。当時の侍は凄い工夫を行う技術集団で、かつ困難に果敢に
挑戦する戦闘集団だったと考える。
天正9年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、 鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。
鳥取城は「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となり吉川経家は城中広間で切腹した。時に35歳であった。
吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、 末代の名誉たるべく存じ候」
と記している。また、子に遺した手紙も時空を超えて、今なお人々の胸を打つ。
「とっとりのこと よるひる二ひゃく日こらえ候 ひょうろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのを
たすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候 かしこ
天正9年10月25日 つね家 あちゃこ かめじゅ かめ五 とく五 まいる 申し給へ」
鳥取城飢え殺しの事が脳裏にあり関が原で石田三成等に同心しなかったのではとふと思ったが、当時は武門の誉れと
考えており、やはり朝鮮の役失敗の責任追及で小早川・吉川の領地減封・移封の動きをしたのが大きいという見方が多い。
世界文化遺産登録を推進する文化庁で平成25年から3年間、文化庁長官を務めた青柳正規氏によると、日本はイコモス加盟が
諸外国に比べ約20年遅れたが、粘り強い交渉の結果、石造遺跡だけでなく木造遺跡も世界遺産登録できるようになった。
日本では木造建築が主流であり、腐食や焼失が前提である。再建された建物でも当時の都市の様子や当時の建築様式を
残していれば貴重だと判断される。例えば1998年文化遺産に登録された奈良の東大寺、春日大社、興福寺、元興寺、唐招提寺は
幾多の戦火で焼失・再建を繰り返しているが貴重な建造物と認定された。奈良協定である。東大寺大仏殿は758年(天平宝字2年)に完成し、
1181年(治承4年)、平重衡などの南都焼討によって焼失。その後、1190年(建久元年)に再建され、
1195年(建久6年)の落慶法要には源頼朝なども列席した。1567年(永禄10年)、東大寺大仏殿の戦いにで久秀軍による放火で
大仏殿が完全に焼失した。その後、仮の仏堂が建設されたが、1610年(慶長15年)の暴風で倒壊した。
現存する大仏殿は、1709年(宝永6年)に完成した。瓦の重みで崩れそうになったので明治時代構造を大きく変えている。
元文化庁長官の青柳正規氏によると、錦帯橋は世界文化遺産登録基準の次の4つに該当する。
(i)人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、
ある期間にわたる価値感の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(v)あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の
土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの
(vi) 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは
文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
既に世界文化遺産に登録されたものに比べて遜色はないが、地元住民の熱意が重要である。
歓迎ムードやお祭りなど、地域をあげて応援している実態が必須条件である。また、申請書書類の
品質も重要です。