岩国市史
戦国時代〜関が原直前
岩国徴古館 岩国市史編纂所 昭和32年(1957年) 編集
第一部(A) 岩国移封前における吉川氏史概観
第一編 駿河・安芸両吉川時代諸豪の活動
第六章 毛利・織田両氏の対立と中国役
第七章 四国・九州の出征と元春・元長の陣没
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第六章 毛利・織田両氏の対立と中国役
第一節 義昭と信長との抗争と織田・毛利両氏の対立
足利義昭は信長の援助で将軍になったにも拘らず、信長と不和になり二条城、槙島を追われても海路備後の鞆の浦に逃れてきた。
毛利氏に援助を懇願してきたので、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景で熟議をこらした後、次の理由でこれを受諾する事にした
(1)毛利元就の遺書には「毛利は中国の領土に満足し、決して天下を望まないこと」とあるが、いずれ理想の実現がくるかもわからない
(2)毛利元就在世中に、数度将軍足利義昭の恩義を受けたことがある
(3)信長は2度も尼子残党を援助しており、結局、毛利・織田の衝突は避けられない
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吉川元春・小早川隆景は京都に上洛するためには、山陽道、山陰道、海路の三道を同時に攻め上る案を考えた。
更に上杉輝虎・武田勝頼・九州の諸大名にも声をかけ東西から一気に上洛する準備を始めた。
しかし、信長は秀吉を播磨に出動させ宇喜多に圧力をかけ、同時に丹波に出陣して波多野を討伐させた。さらに九州の大友義鎮と気脈を通じた。
秀吉の軍用は充実しており容易に崩せそうもないため、山陰道を抜けて山城の背後を突く構想は中止になった。
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毛利軍は一丸となって秀吉軍にあたり、5年間で大小数十回の合戦が行われた
第二節 中国役における元春の活動
中国の役で、有名なものは上月戦争、三木戦争、鳥取戦争、高松戦争である。元春は三木戦争には関与しなかったが他の三戦争に関与した。
上月戦争
秀吉は信長の命で播磨に出兵し、姫路城を本拠地として上月城を7日で攻め落とした。ここに尼子勝久と尼子残党2300を入城させて守らせた。
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秀吉軍の勢いは優勢であるため、吉川元春は山陰道の東進を変更して上月城の攻撃に参加する事にした。
小早川隆景・吉川元春・宇喜多直家の総勢5万の大軍で上月城を包囲した。
秀吉、荒木村重、滝沢一益は上月城の救済に向かったが包囲が厳重で近づけず遠方から声援を与えるだけだった
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水・糧道を遮断したため、城内から逃亡するものが続出した
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吉川元春は、秀吉の第一陣・第二陣を攻め立て、遂に秀吉軍は高倉山ふもとまで後退させた。
これを見て上月城に籠城中将兵の志気は俄かに衰え、ついに落城した。
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尼子勝久、弟の氏久、加藤彦四郎は自刃し尼子氏はここに滅亡した。
山中幸盛は元春の命で備中松山の毛利輝元の陣に移送途中、合ノ渡し場で毛利家臣により殺害された。
立原久綱は安芸に護送されたが、逃亡して蜂須賀家政に仕えた。
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鳥取戦争と元春の馬野山対陣
秀吉は弟秀長に但馬を征服させ、自ら主力軍を統率して因幡に攻め込んだ。
山名豊国は秀吉の懐柔と威嚇によって家臣の反対を押し切り鳥取城外に脱出した。
山名豊国の家老達は使者を元春に送り、城将の派遣を懇願した。
・1581年、石見国福光城主吉川経安の嫡子経家を城督とする事に決定し吉川勢400を引率して鳥取城に入城した。
これに山名家の籠城兵1000、雑兵を加算して3400に過ぎなかった。しかし、兵糧が2〜3カ月分しかなかったので
元春に至急補給するようにと懇願した。
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姫路の秀吉は2万の大軍で但馬口から因幡に侵入し、鳥取・丸山両城を完全に包囲した
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包囲網は総延長約三里(11.8km)で10町(1090m)毎に3層の櫓を設け、5町(545m)毎に哨兵を置いていた。
また、袋川には乱杭を打ち、逆茂木を作り、川底にはなわ網をはり、夜間は1〜2時間おきにかがり火を焚いた。
信長の命で長岡藤孝は秀吉軍に食料を運搬するだけでなく毛利水軍の穀物輸送船を襲って食料を分捕った。
吉川元春は反旗を翻した南条元続・小鴨元清の討伐を行い、輝元・小早川隆景は宇喜多直家に対抗するため出陣していた
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鳥取城では餓死者が続出したため、遂に開城し吉川経安以下、主な将兵は自害した。
このとき吉川経安が残した遺書が吉川資料館に今も残っている。
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吉川経安の辞世の句2首。
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吉川元春は鳥取城救援のため6000の兵を率いて馬野山(鳥取城西方約20km)に陣を敷いた時、鳥取・丸山城は陥落していた。
秀吉軍45000は、突如に馬野山を見下ろす高山に陣を布き吉川軍を一気に殲滅する気配を示していた。
吉川軍は背水の陣を布き土塁を築くなど防御態勢を固めていたが、秀吉軍は接戦を回避して姫路に引き上げた
高松城の水攻めと元春の活動
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秀吉は備中高松城主清水宗治に備中1国の安堵を条件に降伏を促したが、清水宗治はこれを拒絶したので高松城の攻撃が始まった。
秀吉は高松城の属城を攻め落とし、高松城を包囲して猛攻を加えた。清水宗治は将兵6500で決死奮戦して秀吉軍に損害を与え撃退した。
そこで秀吉は城を水攻めにすることにした。蛙ヶ鼻から門前邑に至る延長三十余町(約3.3km)の堤防を作り足守川の水を流し込んだ。
毛利輝元、吉川元春、小早川隆景は高松城付近に着陣した。
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毛利側は秀吉の包囲網を突破しようと試みたが包囲網が堅く不可能であった。安国寺恵瓊が両軍の間を往来して講和を斡旋したが
「城将清水宗治の切腹」という条件を毛利側が承服することができず不成立であった。
そのとき本能寺の変で信長死去の報が秀吉軍に入った(6月2日)。秀吉は安国寺恵瓊を高松城に送り込み、清水宗治に会い、講和が成立する
には貴殿の切腹が必要と説得したところ、清水宗治は快諾して秀吉が差し向けた小船の上で、兄と共に自害してはてた(6月4日)。
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清水宗治辞世の句
翌日(6月5日)、秀吉軍は撤退した。このとき信長死亡の報が紀伊雑賀衆から毛利側に入り多くの将兵は追撃せんとしたが、
元春・隆景はこれを制止した。逆に、約定をまもり秀吉に援兵を派遣したので秀吉は大いにこれを徳とし、以降、
毛利・吉川・小早川を優遇した
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高松講和条約細目と協定と元春の隠退
領土割譲の細目が曖昧だったため、秀吉側と毛利側が交渉したが双方激しく主張して険悪な雰囲気になったが、
突如、秀吉が毛利側の主張を認め講和が成立した
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毛利から、毛利元就の第9子で小早川隆景の養子の小早川元総と、吉川元治の第四子経言(後の広家)を人質として大阪に送った。
経言は2ヵ月後、帰国を許された。吉川元春は秀吉配下になったことを潔しとせず元長に家督を譲り隠退した。
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第七章 四国・九州の出征と元春の陣没
第一節 元長の四国出征と大阪登城
1584年、小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が尾張で衝突していた時、四国の長曾我部は根来衆を誘い大阪を襲撃せんと
堺に出兵していた。秀吉は家康と講和を結んだ後、直ちに紀伊の根来寺を焼き雑賀の一揆を鎮圧した。
また、毛利に四国攻めを要請してきた。
1585年、吉川元長は小早川軍と共に伊予に攻め込んだ。
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伊予は数箇所の城を陥落させたら残り全てが降伏してきた。
また羽柴秀長軍が阿波に上陸し、宇喜田秀家・黒田孝高が讃岐に上陸すると長曾我部は土佐以外は割譲すると降伏してきた。
四国平定後、元春の命で元長・隆景・輝元の使者が大阪を表敬訪問したところ、大いに歓迎された。
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九州役と元春・元長の陣没
九州には大友義鎮、竜造寺隆信、島津義久の3大勢力があったが、島津が秀吉の意向を無視して大友氏を討伐した
秀吉は、毛利・吉川・小早川で島津を討つように要請し、成功すれば筑前を元春に与えるとの約定があった。
・1586年、輝元・吉川元春は元長・経言を伴い小早川隆景と共に豊前に上陸した
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小倉城に入城したとき、元春は瘍病(注 よう(癰)は、隣り合わさったいくつかの毛包や毛包の周囲に、同時に細菌感染を起こしたものです)
にかかり病床に臥せた。一時回復したが再度悪化し逝去した。享年57歳であった。
ご遺体は火野山の南麓にある吉野原海応寺境内に埋葬した。
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吉川元春は武芸と共に文才も富んでいた。
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若い頃、吉川元春は大内氏の山口で文才を発揮している。
太平記40巻の写本や吉川家の重宝となっている吾妻鏡は国宝になっている
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第三節 元長の陣没と経言の相続
元春の死後、元長は戦地に滞在し、羽柴秀長軍に属して島津家久の軍を耳城で破り敗走させた。
しかし、日向の都於里の陣中で病にかかり死去した。享年40歳。父と同じく文武兼備の偉材であった。
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吉川元長が詠んだ和歌
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吉川元長が詠んだ和歌
吉川元春・元長は九州征伐で偉大あな勲功をあげたが、両名が死亡したので筑前1国を与えるという約定は無視された。
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