岩国市史
戦国時代〜関が原直前
岩国徴古館 岩国市史編纂所 昭和32年(1957年) 編集
第一部(A) 岩国移封前における吉川氏史概観
第一編 駿河・安芸両吉川時代諸豪の活動
第一章 吉川氏の家系と駿河吉川時代
第二章 吉川経高の移住と安芸新庄時代
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第一部(A) 岩国移封前における吉川氏史概観
第一編 駿河・安芸両吉川時代諸豪の活動
第一章 吉川氏の家系と駿河吉川時代
第一節 吉川氏の家系と始祖経義の事跡
吉川氏の家系は藤原氏
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吉川氏居館跡、静岡県安部郡
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吉川氏居館跡付近の地図。苗字は、吉香、木河、金河、橘河と定まっていなかったが、経基時代の後半から吉河、吉川の姓を使うようになった
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第二節 友兼・朝経・経光・経高4代の事跡
・1184年、源頼朝の命で甲斐源氏の棟梁格、一条忠頼に同心した信濃源氏の井上光盛を富士川の河口付近、駿河の国蒲原で斬った
・1189年、奥州、藤原秀衡討伐軍に参陣
・1193年、富士の狩遊に陪従
・1200年、梶原景時が鎌倉幕府2代目将軍、源頼家に謀反を企て一族を引き連れ京都に至らんと駿河吉河邑付近の狐ヶ崎を通過していた時に、
吉川友兼は勇猛な梶原景時の三男、梶原景茂を斬殺した。
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吉川友兼も深手を負い翌日死亡した。梶原景時の一族・郎党は悉く討たれ、梶原景時は狐ヶ崎後方の丘上で自害して果てた。
梶原景時が自害したのは安部郡大内村矢崎で、丘は現在、梶原山と称し、山麓に梶原堂がある。
このとき使われた狐カ崎の太刀は国宝に指定されている。
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・吉川友兼の勲功により、吉川朝経は2代目将軍源頼家から梶原氏の旧領、播磨国揖保郡福井庄(28カ村)の地頭職に補任された
・1221年、承久の役の時、吉川経光は宇治橋の戦で奮戦した功で、安芸郡大朝本庄(山県郡)の地頭職に補任された。
・1313年、吉川経高は当時静岡県安部郡吉河村に住んでいたが、遠隔地の安芸郡大朝本庄が周辺豪族に侵略されるので、鎌倉幕府の
許可を得て安芸郡大朝本庄に居を移した
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第二章 吉川経高の移住と安芸新庄時代
第17代の吉川広家が1591年、出雲国富田に移住するまでの278年間、この地にいた
第一節 経高の大朝移住と安芸新庄時代
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吉川経高には弟がおり、各々、播磨吉川、石見吉川、駿河吉川の始祖になった
第二節 経盛・経秋・経見・経信・之経5代の事跡
吉川家は鎌倉幕府や足利氏に属していたが、庶流の吉川は吉野朝に忠勤を励む者もいた。
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・足利氏に臣従して本領を安堵された
・1313年、吉川経長は後醍醐天皇の綸旨を奉載せして船上山の陣で軍功を上げた
・1313年、周防国新寺合戦に参加
・1314年、足利尊氏・直義の残党探索
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・1358年、石見吉川の経見は足利直冬の部下となり尊氏の軍と数次交戦して偉勲をたて左兵衛尉に任命された。
・1368年、安芸新庄の吉川経秋に男子の子供がいなかったので、石見吉川の経見を養子に迎えた。
・1372年、吉川経見は将軍側に属して九州に出征した
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・1380年、将軍義満は吉川経見に、戦勲の賞として大朝新庄・大朝滝名・平田庄等の地頭職を補任した。
・1435年、吉川経信は大内持世に従い、豊後国で大友氏の軍を破った
・1439年、吉川経信は山門合戦に参加して偉勲をたてた
・1440年、吉川経信は大和国の合戦に参加して偉勲をたてた
・1441年、吉川経信は足利将軍の命で赤松満祐の征伐に参加して偉勲をたて、将軍義政から感情と太刀を拝領した
・1441年、吉川経信は足利将軍の命で若狭の一色義貫の残党を掃滅し、丹波国志摩庄を受領した
・1457年、吉川之経は、足利将軍の命で武田信賢を助け、大内教弘と厳島神社宮司佐伯親春連合軍を破った
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第三節 経基・国経・元経三代の事跡
・1460年、畠山義就が畠山政長と交戦するに至った時、吉川経基は将軍義政の命で、畠山政長を助けるため山名是豊の武将として出征し偉勲をたてた。
・1467年、応仁の乱勃発で、一条高倉合戦、武者小路今出川合戦、北小路高倉の合戦、鹿苑院口の合戦等で奮闘勇戦して武功をあげた
・1467年、細川勝元に従い西軍の武将畠山義就と京都相国寺跡で交戦し、畠山義就の攻撃で味方が崩れる中、満身傷だらけになりながら猛然と反撃した。
その様子から鬼吉川とも、創痕が多く俎板のようだったので、俎吉川とも称していた。
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応仁の乱以降、西軍に組する武将は地方で東軍の領地を武力で奪う行為に出たので、全国的に戦乱が広がった。
・1468年、東軍の山名是豊の領地に攻め込んだ豪族に対し、吉川経基は幕府の命で、これら豪族を撃退した。
・1470年、将軍義政は吉川経基の領地を加増した
・1487年、幕府および播磨の守護赤松政則の来援要望を受けて、播磨に出兵した。
その功労に報いるため赤松政則は吉川経基に福井庄二十八カ村の地頭職に補任した
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吉川経基は文学に素養があり、和歌、百人一首、書道、写本、禅宗などに精通していた
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・1504年、吉川国経は安芸国山県郡の有田城攻撃に参加
・1507年、大内義興が前将軍義植を奉じて上洛した時に中国・九州の諸将とともに、これに随従した
・1511年、船岡山の合戦に参加して奮闘勇戦して偉勲をたてた
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・1515年、安芸国内の守護武田元繁は己斐氏の本拠地有田城を突然、襲撃した。毛利興元と吉川元経は己斐氏を助け、武田元繁の軍を破った
・1517年、武田元繁は熊谷元直等の援助を得て、再び有田城に肉薄した。吉川元経は毛利元就の軍と協力して中井手に出陣して、
熊谷元直の軍を粉砕し、敵将武田元繁を斬殺した。
また、吉川家、毛利家は近隣豪族等との婚姻関係を深めた。
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吉川氏一門は尼子氏傘下に属するものが多かった。
第四節 興経の隠退と元春の相続
吉川元経の死後、吉川興経は幼くして家を相続した。祖父の吉川国経が後見したが、祖父の死後は自分で裁決するようになった。
毛利・吉川家には重縁の関係があったが、毛利家が大内氏に服属してからは疎遠になった。
・1530年、毛利元就は吉川家に150貫の地、及び諸地方を供与して復縁を図ったが成功しなかった
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・1540年、尼子晴久が大軍を率いて毛利の居城吉田郡山城を攻撃した。吉川興経は尼子軍の中核として毛利軍を悩ました。
しかし、陶隆房の援軍は尼子晴久の本営青山三塚山に強襲を加え、晴久の伯父尼子久幸を討った。
尼子軍は夜陰に乗じて急に本国に帰還したので、吉川軍も新庄に引き上げた。
尼子遠征軍の大敗を契機に吉川興経は大内義隆の配下になった。
・1642年、大内氏は尼子の居城富田城を攻めた時、吉川興経は大内軍に追随した。
・1643年、富田城の守りが堅く敗色濃厚になったので再び、吉川興経は尼子氏に降った。
この時、毛利元就は吉川興経の節度のない態度に憤慨して直接、吉川興経を説得して新庄に帰還させた
吉川興経は内政を大塩右衛門尉に任せていたが、評判がよくなかった
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吉川興経の叔父吉川経世は老臣森脇祐有と共謀して大塩右衛門尉父子を殺害して家に放火した。
また、重臣会議を行い吉川興経を隠居させ、毛利元就の第二子元春を招いて家督を相続させることにした。
吉川家重臣の要望に毛利元就は熟考の末、承諾して次の条件を出した
(1)吉川興経隠退後は、毛利領の布川に移住すること
(2)一定の隠居領を興経に与え、実子に相続させる
(3)興経を周防や備後に引き渡さない
吉川興経は家臣10数名と共に布川に移住した
・1548年、毛利元就は元春の養子縁組を大内義隆に諮り承認された
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第五節 元春の新庄入城と興経の殺害
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毛利元就は将来の禍根を断つため、密かに家臣に命じて布川の興経殺害させた。
多勢に無勢で興経父子等は壮烈な最期を遂げた。
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