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錦帯橋に関する史料
(抜粋)

岩国中央図書館所蔵
岩国市横山 岩国徴古館 1972年9月発行


注 著作権法で法人発行の一般本は出版後50年経過まで著作権は保護されます。 本冊子の著作権は有効で、岩国徴古館で200円で販売されています
岩国徴古館に確認したところ全文掲載は禁止だが抜粋掲載は容認との事で、岩国在住でない方のために紹介します。

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要旨

岩国徴古館は江戸時代に周防岩国藩が所有した美術品、調度品、武具甲冑、各種文書類を保管・展示しています。
この本は1972年当時、学芸員だった桂芳樹氏が、膨大な古文書類から錦帯橋に関係する箇所だけ抜き出し編集したものです。 錦帯橋創建から今に至るまでの歴史に触れることが出来ます。

    単ページ 表紙

    単ページ 著者紹介

  • 旧藩主吉川家用達所の日記:「吉川家日簿」
    岩国藩庁内部の日記:「御取次所日記」「御用所日記」「算用所日記」「御納戸日記」
    民間で書継がれた岩国地区年代記:「岩邑年代記」「年代記」「岩邑歳記」
    民間書籍:享保八年、宮庄親輔著作 「厳邑志」
    民間書籍:安永八年、広瀬喜尚著作 「厳邑若干集」
    民間書籍:明治後半、藤田葆著作 「厳邑沿革志」
    民間書籍:明治二十年、南方書佐葆作 「厳山金玉集」
  • 度重なる橋の流失

    錦帯橋が創建されたのは岩国藩初代藩主、吉川広家公が関原の戦後、山陰地方のの月山富田城から岩国に移封された73年後 です。初代藩主吉川広家公の都市計画の中では橋の架橋場所を決めていたと言われています。
    横山・錦見間の錦川に架橋する工事は何度も行い洪水で流失している。2代目藩主、吉川広正公が 1657年架設した橋が洪水で流失したとき、吉川広嘉公は意志を継いで「流れない橋」を作る決意をしたといわれています。 完成まで14年の歳月が流れており苦労が偲ばれます。
    下記文書は、2代目藩主、吉川広正公の時代で、 明暦3年(1657年)架橋した橋が、万治2年(1659年)流失したと書かれています
  • 単ページ 6〜7

    単ページ 6〜7

  • 奇功の五橋

    3代藩主吉川広嘉公の侍医、熊谷玄旦(本名、熊谷正重、俗称、熊谷元旦)が書いた掛け軸の書
    先代藩主広正公は数回架橋したが、洪水で石が転がり急流で柱が流れ梁・欄が折れて一瞬で崩壊し今までの 苦労が全て徒労に終わった。 しかし広嘉公は、川中に立てる柱をなくし水上を飛び空に懸かる虹のような橋を考えた。
    熊谷玄旦は錦帯橋が完成した約10〜15年後の元禄年間に亡くなっている。
  • 単ページ 8〜9

  • 苦悩の時代

    3代藩主吉川広嘉公は側近の面々と長思熟考していた
    真田七内:記録所役人で、錦帯橋設計に従事。2代目藩主、吉川広正公の川下中津の隠居屋敷にお供。萩屋敷建設。
    小河内太兵衛:3代藩主吉川広嘉公の近習。錦帯橋の模型製作。火薬で弓矢を飛ばす道具実験。
    宇都宮藤二郎:殿様への取次ぎ役。普請奉行。最初の錦帯橋で奉行を務めた。
    明の亡命僧独立:寛文4年(1664年)頃より医師として薬の調合を行っていた。寛文11年(1671年) 中国杭州西湖の図書を3代藩主吉川広嘉公に紹介している。 広嘉公は青白い顔でお堂にこもり熟考していたとき、西湖について長崎の独立から届いた図を見て、 会心の奇処を会得したとて大いに喜び病魔が吹き飛んだ。
  • p10-11

    p12-13

    p14-15

    p16-17

    p18-19

  • 初代錦帯橋

    延宝元年(1673年)6月8日鍬入れ、9月末完成、10月13渡り初めを行った。 盛大な完成祝いの儀式と宴会をしている
    錦帯橋建立で功績のあった人への祝儀を出した。次が目録である
    宇都宮杢之允、祖式惣左衛門:普請奉行で呉服弐ツ
    中島一郎右衛門:作事組の頭で呉服壱ツ
    児玉九郎右衛門:大工で設計者。米五石
    児玉慶次郎:2代藩主吉川広正公に仕えた大工
    佐伯安右衛門:大工棟梁。金子2分
    戸川利右衛門・宮原又右衛門:石工棟梁。米二石
    東小右衛門:普請方事務主任。金子2分
    山田以下7名:普請方会計。金子2分
    長以下15名:普請方大工および事務官。金子1分
    下肝以下6名:足軽の大工。金子1分
    やり声角介:木遣りの音頭とり。銀3両

    翌年延宝2年(1674年)、錦帯橋流失

    「御用所日記」延宝二年五月廿八日、午前10時より水位が上昇し橋が落ちた。土台より崩れ、真ん中の3橋が流れた。 両端の2橋は残った。(注 1950年キジヤ台風で流れたときも同じ状況であった)。残骸が門前川中津付近に流れたので繋ぎ止めた。
    橋普請は6月より始め、10月25日完成、11月3日渡り初めを行った。
  • p20-21

    p22-23

    p24-25

  • 石積みの研究

    湯浅平左衛門
    延宝4年(1676年)、吉川広嘉公は湯浅平左衛門を近江の国在住の穴太衆、戸波駿河に遣わし要害石垣築き方の研修を行った。 習得後、元禄年間に錦帯橋の橋脚を始め、室の木開拓地で大きな成果を挙げたので4石加増になり20石になった。
    米村茂右衛門
    父祖以来の大工で湯浅平左衛門とともに、穴太衆、戸波駿河に入門して延宝4年、免状を取得して巻物5巻、折本弐通、師匠・高弟の 添状も持ち帰った。
    川底の敷石保護策
    延宝5年(1677年)、橋下に捨石を撒いた。

    橋出米(税金)始まる

    錦帯橋を維持するための特別税、橋出米が延宝6年(1678年)より始まった。 10石に付き米7合5勺、屋敷軒別米7合5勺を徴収した。町方からは間口1間につき米5合、借家は間口2間につき米7合5勺を徴収した。

    橋の維持管理が始まる

    天和2年(1682年)、鞍木、助木で補強する工夫がこの年、始まった
    元禄6年(1693年)、橋板の張替え
    元禄7年(1694年)、河岸側の通常工法の第一、第五橋の架け替え
    元禄12年(1699年)、第二、第三、第四橋の架け替え
  • p26-27

    p28-29

    p30-31

  • 継続的な橋の架け替え

    「御用所日記」
    元禄16年(1703年)7月19日、大雨で横山河岸側の通常工法で川に浸かる柱7本が流れた。 また錦川の水位を測る柵木が上流側45本、下流側36本まで浸かった。従来工法の川に柱を立てる橋なら流失していた
    「年代記」
    元禄16年(1703年)、従来工法の第一、第五橋の架け替えで、米65石、38貫を準備した。(注、約5千万円)
    「年代記」
    宝永4年(1707年)、第二、第三、第四橋の橋板張替え。米34石、銀23貫を準備した。(注、約3千万円)
    この後も、継続的に橋架け替え(約35年周期)、橋板の張替え(約15年周期)を行っている
  • p32-33

    p34-35

    p36-37

  • 記録上、最後の橋板張替え

    明治4年の廃藩置県後も錦帯橋維持管理の記録が旧吉川家文書に書かれており、、 「吉川家日簿」で記録上残っている最後は明治31年(1898年)の橋板張替えである。
  • p38-39

    p40-41

    p42-43

    p44-45

    p46-47

    p48-49

    p50-51

    p52-53

    p54-55

    p56-57

    p56-57

    p58-59

    p60-61

    p62-63

    p64-65

    p66-67

    p68-69

    p70-71

    p72-73

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